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     午前、全国空襲被害者連絡協議会の 第一回総会 報告  

     午後、全国空襲被害者連絡協議会  結成一周年のつどい               
                                    
2011年 8月14日  江戸東京博物館ホール 
       
民間の空襲被害者を救済する援護法を制定へ
         差別なき戦後補償を求める
    全国空襲被害被害者連絡協議会(全国空襲連)
            設立一周年のつどい

     主催全国空襲被害者連絡協議会
     賛同東京大空襲訴訟原告団・弁護団
          大阪空襲訴訟原告団・弁護団
          東京空襲犠牲者遺族会


 

  参加者は
    290名になりました。



 
         


          (以下は発言者の要旨です)

開会あいさつ 
  全国空襲連名誉顧問 杉山千佐子氏

 私たちは60年数前に、あの激しい空襲で、焼夷弾や爆弾の炎に焼かれ、全身ケロイド、今も地獄が続いています。国会へ何度足を運んだことでしょうか。いつの時も廃案。悲しい思いをして東京から名古屋へ戻りました。それからもう40年近い月日が経っているのです。私が一番始めに国会へ行った時は一人でした。「こういうものは国民運動をして持って来い」、「お前たちは国との雇用関係がない」と言われた。国から給料をもらったわけではないが、お国のためにと命をかけて働いたんです。「内地は戦場ではなかった」とも言われる。戦場ではない所へどうして焼夷弾や爆弾が雨あられと降ってきたんでしょうかと言ったら、厚生局長が「雨あられは自然現象だ」と言いました。そんな馬鹿なと腹が立ちました。最初は社会党だけでしたが野党全体でやってくれました。今度こそ援護法ができる、そういう思いながらくやし涙でこの世を去った友達がきっと喜んでくれるでしょう。日本中の戦争犠牲者の方、共に頑張ろうではありませんか。

 

黙祷(震災犠牲者と空襲犠牲者へ)

 

 主催者あいさつ
   全国空襲連共同代表 中山武敏弁護士

 私たち全国空襲連は、民間の空襲被害者を置き去りにしたままの戦後補償政策、それを改めさせる。そして原爆被害者、核廃絶、平和と人権を求める多くの人たちと連帯して、未来の平和につながる差別なき戦後補償立法を求めて活動しております。私たちの活動に応えて超党派の議員連盟が結成されました。結成大会の当日、「空襲等被害者援護法(仮称)」の草案の骨子(素案)が発表されました。現在、衆議院法制局とその骨子を詰めております。国の責任において空襲の被害者及び遺族の救済措置、そして全国の空襲被害等の実態調査を行う。これが法案の趣旨となっております。戦争被害者の苦しみが現在でも癒されることなく続いている。これは過去の問題ではなく現在の課題である。この世論をどれだけ拡げられるか。それによって立法が実現できるかどうかがかかっております。沖縄や九州をはじめ全国各地に運動を拡げたいと思っています。



激励、連帯のあいさつ 
             

  柿澤末途衆議院議員(みんなの党)

 私の地元は、父・柿澤弘治の代から江東区で、東京大空襲の被害に遭い、親や兄弟を亡くされた皆さんが支援者としていろんな話をしてくれました。今回、空襲被害者に対して他の戦争被害者と同じようにしっかりとした戦後補償を行っていく。そのための議員立法を目指す議員連盟が首藤先生を中心にして出来るということで、私もみんなの党を代表して参加しました。皆様方の連帯による活動が新たな一歩につながりますよう私も頑張って参ります。

 

  初鹿明博衆議院議員(民主)

 私の選挙区は江東区の隣の江戸川区です。私の父と祖母は小松川に住んでおりました。3月10日、祖母が2歳の父を抱いてほんとうに怖い思いをして防空壕の中で小さくなっていたという話を小学生の時に何度も聞かされました。幸いに、祖母と父は空襲から逃れて何とか生き延びることができて、私がこうして存在できているわけですが、私の祖父はレイテ島で戦死しました。ですから、母子家庭になって父は育てられたのですけれども、父が学校へ行けたのも、私が高校や大学へ行けたのも、実は祖父が軍人だったためにきちんと国から補償をもらえていたからなんですね。もし、祖母も東京大空襲で犠牲になっていたら、どんな生活をしていたのだろうと、今改めて考えるわけです。

一般の空襲被害者の方々がまったく何の補償もなくて、軍人・軍属の方だけが大きな補償を頂いていることに、私は非常に大きな疑問を感じております。ぎりぎり、戦争を体験した世代から話が聞ける私たちの世代でこの戦後補償の問題はしっかりと解決をしなければならないということを感じて、今国会で仕事をさせて頂いております。

 

  笠井亮衆議院議員(共産)

 私は、二つの点でいま頑張り甲斐があるということを痛感しております。一つは戦後66年経っても、いまだに戦争や空襲の被害者、そして遺族の皆さんに国家補償がなされていない。謝罪もされていない。加えて東日本大震災と原発事故。復旧も遅々として進まず、原発事故の収拾もままならず、被害が広がっている状況。この国の政治は一体何なのか。このことが鋭く問われている中で、この日を迎えているということです。

 二つ目は、国民みんなが戦争や空襲被害者そして原爆被爆者、原発事故の被災者、この方々に思いを寄せて、国民は「等しく受忍されなければならない」ではなく、「等しく補償されなければならない」。それが今、国民の共通の思いになっているのではないでしょうか。私も被爆二世として頑張ります。

 

  福島瑞穂参議院議員(社民)

 空襲被害者の方々の問題は、法制上戦後まだ補償がなされていない、私たちの課題です。私の父は特攻隊の生き残りで3年前に亡くなりました。父はたまたま戦争が少しだけ早く終わったので、命拾いをして戦後を迎えます。戦争が終わったので父は結婚し、姉と私が生まれました。戦争が終らなければ、私は“いのち”そのものをもらえなかったということで、私は戦争をどうやって無くすかと思ってきました。私たちは空襲の問題と向き合うことで、世界から戦争を無くすることが出来るのではないかと思っております。私たちは空襲で被害に遭った人たちへの援護と、きちっとした補償を勝ち取って、ようやく戦後の課題を終えることができる。国民への責任を認めさせ、未来に向かって平和を創っていく。きちっと法律をつくって成立させるとお約束を申し上げます。

 

  木村たけつか衆議院議員(民主)

 私は墨田区、荒川区を選挙区としております。私の祖父は当時川崎におり、川崎も重工業地帯で空襲の被害に遭いました。祖父は市民警防団に参加し、たまたま前の方に爆弾が落ちて、それが腕にあたり、当時は麻酔もなく、祖父は左腕の肘から下がありませんでしたけれども、片腕で非常に器用な方でありました。今思うと、一般の空襲被害者だったんだなあと改めて思った次第です。慰霊碑の建立を何としても実現したいと、ご遺族の方々を中心とした陳情活動がずっと行われてきました。2005年に内閣委員会で採択され、衆議院本会議でも採択されたにもかかわらず、現在この国には国立の空襲慰霊碑がございません。3月9日に超党派で空襲慰霊碑の建立を実現する会が設立され、不肖私が事務局長を仰せつかった次第です。

 

  日本弁護士連合会事務総長 海渡雄一氏

 日弁連は、2009年に「人権行動宣言」を出しております。

 その項目の中に、あらゆる戦争被害者の人権を確立していくことを大きなテーマとして掲げております。その中で、残された課題として、空襲で被災した方々、沖縄戦で被害を受けた方々、そして治安維持法で不当に逮捕された人々の人権の問題を重要な課題として指摘しております。昨年、中山先生から日弁連に問題提起がありまして、きちんとした形で意見をまとめる作業が始まったところです。

 

   日本原水爆被害者団体協議会
             事務局長 田中煕巳氏

 日本政府は、戦争被害はすべて受忍しなければならないという方針を今日まで一貫して取り続けてきました。私たち原爆被爆者は、55年前に被団協を結成しました。ビキニの被災があって、放射線の恐ろしさを国民が知って、政府として被爆者に対し「原爆医療法」をはじめてつくりました。しかし、これは戦争の犠牲に対する補償ではないのです。政府は生きている被爆者の放射線被害のみ一定の対策を取り続けてきました。従って、生きている被爆者への対策は前進させましたけれども、原爆で亡くなった数十万人の犠牲に対しては、まだ一切何もしていません。死亡者に対する償いを改める法律の中で必ず実現させたいと思っております。このことは、全国空襲連の皆さんの補償要求と共通するものです。



基調報告「全国空襲連の現状と課題」
   
    全国空襲連事務局長 足立史郎氏
 全国空襲連は目的として、わが国の歪んだ戦後補償を正して「空襲被害者等援護法(仮称)」の制定を第一に掲げております。二つ目は、空襲の実相を記録し、そして検証をして人間の回復をはかっていく。三つ目は、再び戦争を繰り返さない。そのための平和運動との連帯を強めていくという目的を掲げております。

全国空襲連は、当初は個人212名、団体21。現在は個人371名、団体は25です。

6月25日に「空襲被害者等援護法(仮称)」を実現する議員連盟が結成され、現在、自民党を除きまして、各党から29名の議員に参加して頂いております。立法手続きは衆議院法制局と、首藤先生と高井先生を窓口として議員立法の詰めを致しております。1月上旬にも皆さんに発表できる状況になりつつあります。どうやって国民的な支持と共感を得られるかかという問題は、私どもの大きな課題であります。

東日本大震災という天災についても公的助成制度ができております。昭和48年「災害弔慰金の支給に関する法律」、平成10年「被災者生活再建支援法」があります。一方で、戦争という人災によって被害を受けた者には全く補償がないというのは不正義です。国とは、国民のためにあるのではないか。私どもは残り少ない人生ですが、二度と再び戦争を起こさせないために頑張って行きたいと思います。



国会報告「空襲被害者等援護法(仮称)」案の焦点
   立法活動の展望   
   首藤信彦衆議院議員(民主)

 1周年記念ということで、もう一年たってしまったかという忸怩たる思いでございます。しかし、私たちはいま国会で法制化に取り組んでいます。法制化の難しさはご承知かと思いますが、何でも法律的にきちんと書いていなければいけない、一言一句違ってもいけないのです。それと現状は大変きびしい状況でなかなか進みません。最近、肝炎訴訟の結果、3兆円を超える補償が必要になるということですが、空襲被害に対して一体いくら必要かという問題になります。しかし、このたびは衆議院法制局が、これは法制化しなければいけないということで、この国会の間に論点を整理して次の通常国会に提出したい。同時に、民主党内の政務調査会で民主党としての方針を決めていくという組織づくりが必要になります。そして、来年の通常国会の冒頭から、この問題を国会に提起したい。そのための審議をする委員会も決めていかなければならない。そういうわけで、たくさんのハードルがありますが、これを一つひとつ乗り越えて、必ずやり遂げなければいけないと思います。今述べたシナリオは最も楽観的なシナリオでして、現在の状況の中ではハードルがさらに高くなって、乗り越えられない、進むことが止まってしまう事態もあるかも知れません。しかし、この法案だけは必ず、しっかりと通して、皆さんの過去に対して、そして私たちの将来世代に対して、きちっとした責任を果たしたいと考えています。私の父はシベリア抑留者でしたが、2年前に94歳で亡くなりました。満州から私を背負ってきてようやく生き延びさせてくれた母親は先週92歳で他界しました。そう考えますと時間の猶予はありません。私たちは全力をあげて、一刻も早くこの法律の法制化に向けて努力すると共に、ぜひ皆さん後継者を連れてきて頂きたいと思います。後継者はお孫さんです。息子さんや娘さんは次の戦争に参加することはないと思います。しかし、世界情勢を見ると、この国だって再び戦争に巻き込まれる可能性がないとはいえないと思います。その意味で、ぜひお孫さんに、これは私たちの過去の問題ではなく、君たちの未来のために全力をかけて、しっかりとやるんだという話をして頂きたいと思うわけです。とにかく、法制化が重要です。私たち国会議員が超党派で全力をもって皆さんと共に法制化に向けて努力しますのでよろしくご支援、ご協力をお願い致します。


―― 休 憩 ―― 


リレートーク:差別なき戦後補償を求めて

  早乙女勝元氏(戦災資料センター館長)

国会議員の先生方のお話にたいそう励まされました。

考えて見ますと、310日は10万人の未曾有の犠牲者と被災者がでました。しかし、数時間前までは、灯火管制という薄暗い照明の下で、乏しい食料を分かち合いながら、語り合ったり、あるいはため息をついていた一人ひとりに、それぞれの性格と人格があったんだということを忘れてはならないと思います。東北大震災の場合も、新聞・テレビを通じてそれぞれの悲劇が紹介されていますけれども、東京大空襲の場合それはございません。国の内から外から何の支援の手もないまま、人々は命を失い、焼け出され、その後の人生は塗炭の苦しみの日々であったといえます。私はそういう語りたくない体験を一人ひとり尋ね歩いては聴いてきました。中にはあなたに初めて話すんですと、語るも涙、それを聞いた側にも責任が伴います。それをどうにか活かしていかなければならないという使命が、私の今日まで東京大空襲にこだわる姿勢となりました。

私が東京空襲を記録する会を立ち上げたのは、1970年の夏ですから、まだ30代の若さだったんですが、もはや原告団の皆さんとほぼ同年齢で、来年の3月の末で80の大台を迎えます。

残り時間はどのくらいあるか分かりませんけれども、その私の今の心境の一端を申し上げますと、過去からの声と未来への声を重ね合わせて今を生きる、それがもっとも人間らしい生き方ではないかという気がします。過去からの声というのは、言うまでもなくあの日、あの時無念の死を遂げた方々は、何も語る術はありません。私どもがその人たちのことを忘れたときは、再びこの世から消されるのだと思っております。戦争を始めた国が切り捨ててきた以上、その人たちの思いを受け継いでいくのが私どもの使命ではないでしょうか。過去からの無念の声を何とかして受け継いで未来へ橋渡ししていきたい。未来への声というのは、まだ発言できない小さな小さな子どもたちの声です。この未来世代はこれからどういう国のありようを、どういう社会のありようを願っているか、しみじみ考えざるを得ません。いまや福島に原爆が落ちたと同じような状態で、大地震と津波は天災だったけれども、原発事故は人災ですね。放射能は目に見えず匂いもないから、これからどの程度拡散して人体にどういう影響を与えるかということは未知数です。私どものお孫さん、子どもたちに絶対安心、安全で平和な社会を残すのが、未来の声を重ね合わせて生きる私の生き方ではなかろうかという気がしてなりません。なるほど日本の電力の30パーセントは原発にたよっているんですね。それが全部止まってしまった場合は、電力はどうなるの、日本の産業はどうなるの、という問いかけはあるかも知れません。この問いかけに応える私の回答は、それよりも安心、安全、そして何よりも命を最優先すべきではないのか、の一言に尽きると思います。何がなんでも安心で、平和に生きていてよかったなという明日を、未来世代に手渡したいと思います。

今日は大勢の先生方をお迎えして、激励の挨拶をいただきましたが、最大野党の方がいないのは残念ですね。これからでもいいから何とかして最大野党の総裁が入ってくれればいちばん結構だと思うけれども、そういう人たちの参加を、全力を尽くして招き入れなければ駄目だと思います! そうしないと国会に上程されても反対する人たちが大勢いて、それが最大野党になってしまったんじゃ、なかなか前途は難しいんではありませんか。運動はことごとく敵を減らして、味方を一人でも多くということを肝に銘じて、これからの歳月をがんばっていきたいと考える次第です。

 

  中山武敏弁護団長

 先日沖縄の集会での安里清次郎さん(76歳)という方の話、国民学校三年生の昭和45年4月、沖縄戦が始まって、お父さんが防衛隊に招集されすぐに亡くなりました。お母さんと高等女学校1年のお姉さん、それから本人と7歳の妹さん、4歳の妹さんの4人で、日本軍に付いて、砲弾が飛んでくる中、南の方へ逃げていったそうです。そしてお母さんに迫撃砲があたって内臓が飛び出してしまい、お母さんを助けられなかったことにずーっと悔いが残っているという。

その話を聞いて、すぐ東京大空襲の戸田さん(80歳)を思い出しました。戸田さんも、目の悪いお母さんに焼夷弾にあたった。腰に巻いていた貴重品に燃え移って焼死。本人も顔とか重症を負われて、ケロイドが残った。戦後になって夢にでて、焼夷弾の中を逃げ回わったり、サイレンやじりじり焼けている音とか、匂いまで聞こえてくるという。

私も前田先生や星野さんと重慶に行ったとき、重慶の人たちに、早乙女先生の本から、空襲で全部焼けた状態や、路上に倒れた母の背に子どもを負ぶった跡を白く残して、他は黒こげ、子どももその傍らに黒こげの状態になっている写真などを示しました。ある中国の方も、日本軍の空爆のため、防空壕にお母さんと一緒に入って、多くの圧死者がでた。彼だけ、腰そのほか重症を負ったが助かった。でも障害者となり小学校もいけない、文字も書けない、就職もできない、結婚もできない。

私は、どこでも戦争は民衆が被害者だということは同じ、一緒に連帯しましょうと重慶でも沖縄でも訴えました。

 

  前田哲男氏(ジャーナリスト)

重慶の無差別爆撃は、1938年12月に始まり、実質終わったのは1941年の8月、つまり対米戦争を始めるのに余力がないから、海軍航空隊は全部インドシナの方へ移動して重慶爆撃は終わる。重慶には当時国民政府・国共合作政府の臨時首都でしたから、アメリカ、ソ連、イギリスなどの大使館があり、アメリカの企業、教会があります。さまざまな人たちが報告しています。アメリカ大使館は、重慶のような木と紙でできた都市には焼夷弾が極めて効果的だというリポートを書いて、本国政府に送っています。

 日本軍の重慶爆撃は、アメリカの日本空襲に先立って、そのやり方まで教えた。アメリカはユタ州の砂漠地帯に日本の住宅そっくりそのままの住宅を作って、そこに焼夷弾をどのように落とせばいちばん効果的かということを検討し、その中からナパームという焼夷弾を開発していった。そして結果は、東京大空襲をはじめとする日本都市空襲となった。

 先ほどから多くの方が、受忍論に付いて言及されました。しかしそれを打ち破る言葉が政府から発せられています。菅首相が本部長を務める、原子力災害対策本部が平成23年5月17日に出した「原子力被災者への対応に関する当面の取組方針」の序文の終わりに、次のように書かれています。

「長きにわたり国の原子力政策、電源政策の一番の理解者であり、安全であると信じ、原子力発電所とともに共存してきた皆さんの、今回の事故によって裏切られたとの強い思いに、国は真正面から向き合わねばなりません。

原子力政策は、資源の乏しい我が国が国策として進めてきたものであり、今回の原子力事故による被災者の皆さんは、いわば国策による被害者です。復興までの道のりが仮に長いものであったとしても、最後の最後まで、国が前面に立ち責任を持って対応してまいります。必ずや、被災者の皆さんが、再びふるさとの地に立ち、住み慣れた我が家に戻り、そして、豊かな自然と笑顔があふれるコミュニティを取り戻す日がやってくると確信しています。そして、その日が実現するまで、国として力を尽くす覚悟です。」

 これは、遅れていた戦災都市被害者に対するアピールと読み取れるし、読み取ろうではありませんか(権利は同じ)。そして政府に要求していくことが、私たちの運動の目的になる。受忍論がここに完全に放棄されたと思います。

 

   斎藤貴男氏(ジャーナリスト)

 大震災と原発事故は、前田さんが言われたように、政府の態度は喜ばしいことで、全国空襲連の活動にもある程度いい影響を与えるんではないかと思います。たとえば、福島県の前知事佐藤栄佐久氏が汚職容疑で任期途中逮捕されてしまった。もともと原子力政策に反対しており、地元に安全に関する権限を持たせるよう主張していた。国の原発政策に逆らったために国策捜査をされたといわれています。一審、二審の判決をみても最初から事件性がなかったことをでっち上げた可能性が高い。佐藤栄佐久さんの著作『福島原発の真実(平凡社)』の中には、原発政策というのは正に受忍論・国家無答責任を前提にしていると書かれています。

 政府・原子力災害対策本部が、責任ある態度をとっても、個々の指導層の考え方というのは、相当ひどいものがあります。6月末の東京電力の株主総会に行ってきましたが、議長になった勝俣恒久会長は最初から最後まで開き直りに終始していました。東京電力で責任を取って辞任した役員は、清水社長と武籐副社長の二人ぐらいで、あとは勝俣会長以下そのまま留任している。俺たちには責任はないと言っているに等しい。会場の株主から、資材を投げ打つ気はないのかとか、福島の子どもたちのために貴方がた全員死ねというような厳しい言葉がさんざん飛び交いますが、法律に則って粛々とやるだけと言い返していました。東電ばかりでなく、経団連の米倉会長(住友化学会長)にいたっては、事故直後の記者会見で、千年に一度の津波に耐えたんだから立派なんだ。原子力政策担当者はもっと胸をはればいいといい、その後も、いま点検などで止まっている原発も早く再開しないと、われわれ大企業は外国に出て行くぞと、くどいほど言っている。恫喝しているわけです。新聞などに載らないから皆さんご存じないかもしれませんが、何故かこれが財界トップの考え方はこうなんですね。さらに石原慎太郎東京都知事にいたっては、ご存知のとおり震災直後に“天罰”だとぬかしましたね。さすが福島県の人たちが怒っていると聞いたら、わざわざ福島県へ行って現知事に対して「私は原発推進論者である」と云った。こんどは8月5日、原爆記念日の前日の記者会見で、アメリカの核攻撃のシュミレーション実験の話題を受けて、“日本もやるべきだ。核を持たなければどこまでもなめられる”というようなことをわざわざ言うわけです。次の日が原爆の日なのに。どういうわけかこれが批判もされず、新聞にはそういうことを云いましたということは載るんだけど、“これはひどい、発言は撤回させろ”とかという議論はいっさい出ない。その少し前に復興大臣だった松本龍さんが被災地で暴言を吐いたということで辞任に追い込まれましたが、何だか松本さんが気の毒になるような気がしました。あれよりもよっぽどこいつらの方がひどいことを言っているではないかと。まあこの人たちの方が権力を持っていて、財界にとって都合がいい方たちである、ということにつきるのではないかと思います。こういうことばかりを、この国は繰り返してきたんではないかと思います。

 

  黒岩哲彦弁護士
 私たちは先輩たちの運動を引き継いでやっていかなければならないと思っています。

その一つに「被災者生活再建支援法」。この法律ができたのは阪神大震災のときです。当時の政府は、日本は私有財産の国だ、社会主義の国ではない。家を再建するのは自己責任だとして全く救済しませんでした。神戸の人たちは、今は亡くなられているあの作家・小田実さんを中心に立ち上がり、市民と議員が共同する市民・議員立法運動を進めました。ある党は自ら法案を提案していたのに、それを取り下げて小田さんたちの運動に合流し、議員立法として勝ち取られたのが、この「被災者生活再建支援法」です。確かにまだ不十分ですが、当時小田さんたちが頑張ってくれたおかげで、いま東日本大震災の救済の土台が作られていた。かくしてわが国は自然災害についてさえも、運動がなければ法律もつくれない、そんな過去の国であったことを私たちは認めなければなりません。

二つ目に、私たちはいま高裁で、どこで勝負をかけるか。それは杉山さんの活動です。彼女が冒頭の挨拶で述べたように、14回も法律案を提出し、ことごとく廃案にされた。にもかかわらずこの努力、これを全て踏み潰していった当時の自民党政権、あまりにもひどいではないかということです。これを「立法不作為の違憲」として高裁で全面的に主張しようと思っています。

三つ目、東京地裁の判決文でも、ちゃんと被害者を調査すること、死亡者を埋葬すること、慰霊碑をつくることは国家の道義的な責任であると書きました。ただし法的責任とは言わなかった。何とか法的責任に持っていきたいと思っています。

 東京高裁の裁判は11月28日で結審、大阪地裁の判決は12月7日。来年の通常国会で援護法を勝ちとるべく、東京の弁護団も頑張っております。

 

   瑞慶山弁護士

 8月11日に行われた全国空襲連の沖縄集会は、東京のほうから中山団長ほか30名、沖縄関係で70名、参加者計100名となりました。沖縄では戦闘参加者として一般被災者もたくさん補償されているのではないかといわれるが、決してそうではなくて、民間の戦闘参加者に対する補償も、軍人・軍属に比べて低い。全く補償されていない民間戦争被害者の補償額はゼロ。民間被害者の中でも差別的格差がある。それから沖縄には南洋諸島の被災者が多い。会場にはサイパンの玉砕で肉親を亡くした方たちが遺影を掲げて参加していました。

 かくして沖縄では、地上戦ばかりでなく、艦砲死没者、海上死没者、南方諸島死没・被害者など多岐にわたる。これら戦争被害者をどう救うか。被害者を置き去りにしないで、できるだけ広範に救っていくという視点をいれながら、しかも早期に立法化を図るといことが大事だと思います。

 


アピール ―省略― 


閉会のあいさつ

  全国空襲連副運営委員長 安野輝子氏

 あの戦争から66年。火の海となった街を逃げ惑い、かろうじて助かった私も、米軍機が落とした爆弾の破片の直撃を受け、左足の膝からちぎれていました。その夜は失血多量で死線をさまよったそうです。足がなくなったことはどういうことなのか、6歳の私には理解できませんでした。トカゲの尻尾がちぎれてもまた生えてくる様に、足はきっと生えてくるように思っていました。幼い願いは虚しく、66年松葉杖と義足で生きてきました。今日のように猛暑の外出では、だんだんふやけて血だらけになります。毎朝義足をつけることで始まる私にとって、空襲とは、年月と共に風化するものでも、受忍できるものでもありませんでした。昨年8月の今日、国に被害の受忍を強いられていた全国空襲被害者が東京に一堂に会し、全国空襲被害者連絡協議会を立ち上げました。空襲で両親や兄弟を失い、孤児になった人たちがいます。焼夷弾で顔や足など大やけどを負い、職にも就けなかった仲間がいます。私のように体の一部を奪われた人もいます。被害の形態は違っても、願いは一つです。その願いは、民主主義をうたうこの国が、戦後66年間心や体に傷を負った空襲被害者に対して、何ら援護策もとらず切り捨ててきたことに、謝罪を求めること、被害に見合った補償・援護を求めることです。それは奪われてきた人生を取り戻す戦いです。政治家の皆さん、裁判官の皆さん、戦後食うや食わずの生活を強いられ、学校にも満足に行かれず、社会的差別をされてきた私たち空襲被災者に、どうか光を与えてください。戦争被害者を線引きし、切り捨てないで下さい。生かされた私たちにとって戦争も差別もない世界を、子や孫の世代に手渡すことが、戦争で亡くなった多くの民の命に結びつくことだと思います。どうか残り少ない私たちの人生を少しでも穏やかに過ごさせてください。               

 ― 以 上 ―