「東京都平和祈念館」 建設が急務
                     ( 2017年10月 内容の一部を修正しました。)

 
 終戦後37年を過ぎた昭和57(1959)年1月に、『戦災殃死者改装事業始末記』という小冊子(47頁)が、財団法人東京都慰霊協会によって出されています。

 『始末記』によれば、東京都建設局公園緑地課は、昭和19年11月24日から20年8月25日までの、東京空襲の死者104.908体を管理処理した。その内、3月10日など死者が多く火葬処理能力を超えて、引き取り手のない死者78.618体を、公有地約50か所に秘かに土葬仮埋葬し、後昭和23,24,25年の冬季にその遺体を掘り起こし、火葬改葬をした。
 当時、このような事実は報道禁止。今もなお、国や各自治体としては敢えて積極的な報道はしない。

 当時この苛烈な作業を担当した、公園緑地課の職員8名による座談会の貴重な記録です。石川光陽氏の写真にある無残な犠牲者の処理をしたという、酸鼻を極めた作業の実態が語られています。

 このような空襲被害の実態は、遺族には元より一般に知らされなかった。何故でしょうか。前にも書きましたように、戦中は言論統制、戦後はGHQによる厳しいプレスコードが敷かれていたのです。

終戦当時、東京都渋谷区長(当時の区長は任命制)を務めていた磯村英一氏(1903.1.10 – 1997.4.5)が、英語が堪能なことからGHQとの交渉役として、東京都長官官房渉外部長を命じられていた。墨田公園の言問橋の畔に、犠牲者慰霊搭を建立するという具体案について、「戦災者救済会」佐々木松夫会長が、GHQの考えを問い合わせてきた。問われた磯村氏がこの案についてGHQに尋ねたところ、GHQは、“日本人に戦争を忘れさせたい。戦災者慰霊塔を見て再び戦争を思い出させることがあってはならない。慰霊塔の建立は許可しない”という回答。よって、磯村英一渉外部長は、昭和22(1947)年2月24日付で、東京都と全自治体の長に対し、文書(次頁参照)で戦災者慰霊塔の建立を禁止する通達を出した様子が伺われます。

報道統制下において、仮埋葬されていた死者78.618体を、昭和23年の冬季から2年後の25年の冬季にかけて秘かに掘り起こし、火葬された。遺骨は、東京都公園緑地課 井下清氏の「戦災殉難者慰霊堂」構想が、GHQのバーンズ宗教課長の許可が得られず、彼の命令で大正5(1930)年の関東大震災による死者が納められている「震災記念堂」の裏部に合祀し、「東京都慰霊堂」と改称されています(『井下清先生業績録』から)。GHQとしては、慰霊碑や慰霊堂などという空襲の痕跡を残したくなかった。われわれ都民からすれば、天災と戦災という大きな違いを、場所的に区別しないわけにはいかないでしょう。

     

その後、東京都の独立した公的慰霊施設の建設は、遺族など多くの関係者の間で長年求められてきました。以下、東京都の計画への流れは、その要求を反映しています。(緑色の部分は、他の府県の例)

  ・昭和28(1953)年3月『東京都戦災誌』(編集兼発行東京都)

・昭和30(1955)年8月 広島平和記念館と平和記念資料館が開館
後、平成6年と平成9年の改修で、現在の「広島平和祈念資料館」となる

・昭和30(1955)年 長崎国際文化会館原爆資料室が開館

 ・昭和45(1970)年 早乙女勝元氏「東京空襲を記録する会」を結成
 ・昭和50(1975)年 沖縄県平和祈念資料館 開館
         平成12(2000)年に移転改築して現在の資料館

 ・昭和57(1982)年 『戦災殃死者改装事業始末記』
               (財団法人東京都慰霊協会)
 ・平成 2(1990)年 東京都平和の日条例を公布

  ・平成 3(1991)年 ピースおおさか(大阪平和センター)開館

・平成 4(1992)年6月、鈴木俊一知事が「平和記念館」建設方針を正式表明「東京都平和記念館基本構想懇談会」(座長永井道雄)を設置
 平和記念館の基本理念、記念館事業の在り方、施設整備の基本的な考え方、施設運営の在り方等基本的事項を調査検討することを目的としている。

・平成 5(1993)年6月、「東京都平和祈念館基本構想懇談会報告」が出る。
 6回の懇談会を開き、設置意義を、「戦争の惨禍を語り継ぎ、都民一人ひとりが平和の大切さを確認する拠点」「都民の平和への願いを世界に向けて発信すること」等々とし、施設の名称は、『平和祈念館』とすることがふさわしいとした。

 ・平成 6(1994)年5月、東京都は東京都平和祈念館(仮称)基本計画
     を策定。
 ・平成 7(1995)年3月1日、「東京都民平和アピール」 写 真
    
このアピールは、東京都が主催した東京都平和の日記念式典で参加した全
    ての人々、都議会のすべての会派、有識者など一致して採択しています。

・平成 7(1995)年6月、「平和の礎」(県営平和祈念公園)・沖縄戦終結50周年を記念して建設

・平成 7(1995)年11月、東京都が「とうきょうプラン’95」(東京都総合3か年計画)において、平和祈念館の建設を計画事業化

・平成 8(1996)年 長崎原爆資料室が現在の長崎原爆資料館に建替え

・平成 8年5月、東京都平和祈念館(仮称)建設委員会の設置

・平成10年7月、東京都平和祈念館(仮称)建設委員会の報告がなされた。報告は、建設委員会による13回の検討会、建築部会による検討は4回、展示部会が12回行われ、計画案の設置場所や展示基本設計などにまだ大きな課題が残されています。

 この建設委員会の報告書の「結び」には、

 「東京大空襲からすでに半世紀を経た現在、東京の姿は一変し、一面の焼け野原と化した当時を偲ぶよすがを見つけ出すことは難しくなりました。しかし、空襲で家族を、親戚を、友人を、隣人を失った人びとの心の痛みは消え去るものではありません。空襲の犠牲となった人びとを悼み、都民の戦争体験を語り継いでいくことが、今の平和な時代を生きるわれわれの責務と考えます。

  東京都においては、都民の幅広い支持の下、後世に、そして世界に誇り得る平和祈念館を建設するよう希望します。」と書いています。

・東京都議会文教委員会においても、平成9年から平成11年2月にかけて「平和祈念館建設基本計画」について審議するも、展示内容などに合意に至らず。

・平成11(1999)年3月 都議会予算特別委員会は、東京都平和祈念館建設の議案に対して、展示内容について都議会の合意を得るよう求める付帯決議を付ける。

(1)平和祈念館の建設に当たっては、都の厳しい財政状況と従来の経過を十分踏まえ、展示内容のうち未だ議論の不十分な事実については、今後さらに検討を加え、都議会の合意を得た上で実施すること。

(2)東京空襲犠牲者追悼碑の早期建立に取り組むこと。

(3)東京空襲犠牲者名簿の収集・作成を平成11年度の早期に開始すること。

・平成11年8月 東京都は「東京都平和祈念館」建設を凍結
    都議会の付帯決議を検討することなく、都自身が建設計画を凍結しています。(2)と(3)については、平成13年に不完全ながら施行されている。

・平成13(2001)年  「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」横網公園内に設置される。

・平成14(2002)年3月 民営「東京大空襲・資料センター」完成。東京都の「平和祈念館」建設計画が凍結となり、「記録する会」と財団法人 政治経済研究所は、民間による募金と協力によって設立

・平成14(2002)年8月 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 完成

・平成15(2003)年7月 国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館開館 完成

・平成19(2007)年5月 民営「愛知・名古屋 戦争に関する資料館ピース愛知」をオープン 

被占領時代、空襲死者に対する慰霊施設の設置は、占領軍によって完全に抑止されていた。しかし、自治回復後を辿ると、徐々に慰霊・追悼・祈念施設は広まってきました。

東京都議会は、平成11年3月9日の予算特別委員会における平和祈念館(仮称)についての付帯決議をつけたまま、以降審議がなされないままになっています。今は、あの歴史上の大空襲による無数の悲劇の惨状は、早乙女勝元氏の努力によって、平成14年に開設された、民立・民営の「東京大空襲・資料センター」によって、やっと継承が保たれています。この極めて社会的・公的問題を、民間の有志に任せている状態は異常である。

ここで、「平成11(1999)年3月都議会 展示内容について都議会の合意を得るよう求める付帯決議」について、検討してみましょう。

(1) の問題について
 財政事情による理由ついては、箱物の予算を控えるにしても、平成4年来の東京都の計画の重みにかけて、情状の余地はないのではないだろうか。次に“展示内容のうち未だ議論の不十分な事実については、今後さらに検討を加え、都議会もとの合意を得た上で実施すること”のくだりで、当時、展示内容について議員間の歴史認識の違いによって合意に至らなかったと思われる。その歴史認識の違いの究極点は「戦争責任」ではないだろうか。これを求めようとしても埒が明きません。今、振り出しに戻して、「戦争責任」問題を避け、場所と規模を含めて新たに大局的観点から検討すべきです。第1章 天皇 の条文を含む日本国憲法が存在している上に、後に「東京裁判」や「日米安保条約」と「行政協定(今は地位協定)」が交わされている。現在の日本戦後史においては、憲法上、外交条約上、政治上、明らかに矛盾が多く、国民の全てに共通の歴史認識を求めることができる構造になっていない。この面倒な問題については、後の世代に委ねること。 

 都議会議員の方々は、互いにこれらのことを考慮すれば、東京大空襲という悲惨な事実を記録に残す公共施設が未だ東京に無いという現状は、不自然、不都合であり急務を要することと認識されるのではないか。

  (2)と(3)については、実に不完全ながら既に実施されている。

 警視庁警官 石川光陽氏が撮った悲惨な東京空襲の、唯一公的な写真が残されている。それに平和祈念館の建設計画により、東京都は戦時中の資料提供を広く呼び掛けて提供された「金庫で焼け残った目覚まし時計」「無事を喜ぶ手紙」「機銃掃射を受けた時に着ていた胴衣」、絵画や日記、軍の内部資料とみられる文書など、それに新たに購入したりして集めた資料を合わせて計5.040点が、計画の中断で行き場を失ったままで保管されているという。

 後の平成24(2012)年7月に、財団法人日本博物館協会が、全ての博物館に共通する、社会的機能のあるべき姿を示す『博物館の原則 博物館関係者の行動規範』を制定しています。この原則は、国際博物館会議の「ICOM職業倫理規定」および文部科学省の「博物館の設置及び運営上の望ましい基準」で定められた理念を反映している、と記されています。「資料の多面的な価値を尊重し、経緯をもって扱い、資料に関わる人々の多様な価値観と権利に配慮して活動すること」等々、設置者、運営者、学芸員など博物館に関わる人々の行動規範を定めています。

 空襲等遺族は平均80歳を超えています。東京都と都議会議員は、付帯決議にあるように、「展示内容のうち未だ議論の不十分な事実については、今後さらに検討を加え、都議会の合意を得た上で実施すること」を再開する責務があります。ここで互いに些末な問題に拘って、解決を放置するような故意の、あるいは未必の行政無作為は、東京都の歴史から空襲の事実を欠落させることになります。その怠慢は死者と遺族、および歴史への冒涜でしょう。都民の無関心や無知も同じ罪に値するのではないだろうか。

東京都と都議会、それに都民は、歴史としての平和祈念館(仮称)の建設は都政の責務です。自治体として、『博物館の原則』に則り、平成5年の「平和祈念館基本構想」や平成7年の「都民平和アピール」の原点に立ち返り、17年間 審議を放置している「東京都平和祈念館」(仮称)建設のために、当時の旧計画案を見直す新しい「委員会」を急いで設置していただきたいと思います。


                  2017.10.21 校正

東京空襲犠牲者遺族会
世話人 西沢俊次