平成27(2015)年7月4日
東京空襲犠牲者遺族会主催
東京墨田区の本所プラザで
 
空襲体験 
墨田のつどい

を催し、40名が
参加しました。
  東京空襲犠牲者遺族会 会報
     『せめて名前だけでも』第40号
(2016.1.25)
        「空襲体験 墨田のつどい」より転載

司会 
根本徳三さん(82)(遺族会副会長)
 今年は戦後70年、戦争と平和の問題が活発に議論されています。私たち遺族会はこの問題を真正面から取り上げ今日まで活動を続けてきました。一口に70年といいますが、昔は“人生は50年”と云われていました。短いようで長い歳月ではなかったかと思います。終戦のとき生れた方でも70歳。その頃、もの心がつき記憶力が確かになった少年少女は80歳前後になっています。戦争は再び繰り返さないという想いで、いろいろな方たちが努力して今日までこられたと思います。今日は遺族会が主体で、70年前の空襲を思い起こし、語る場を予定しております。

星野 弘さんの挨拶(84)遺族会会長 墨田区押上
 今日の集まりの趣旨を一言いっておきたいと思います。私たちは“戦争の後始末をしてください”ということで遺族会をつくり、東京都には死者の名前も記録してないではないか、記録をしてくださいということで、死者3900人しかなかった名簿を、昨年末で80,000人を突破しました。被害を受けた東京も、広島、長崎、沖縄のように追悼施設、氏名記録、資料館をお願いし、がんばってきました。

 先月、国会で変化の兆しが見えました。6月18日の参議院予算委員会の質問の中で、柿沢未途議員が安倍総理に、法律をつくって空襲犠牲者に対して何らかの補償と追悼してくださいと言いました。このような質問は国会始まって以来ですからね。首相も理解を示し、「・・・国会においても十分なご議論をしていただき、政府において、もちろん行政ということもありますが、まさにみんなで考えていくべき問題ではないか、このように考えています。・・・」もっと詳しく言っているんですけれど、結論的にいいますと、国会議員みんなで考えて行こうではないかという、理解のある回答をしています。
 8月6日、衆議院第2議員会館にて、「空襲被害者等の補償問題について立法措置による解決を考える議員連盟」(空襲議連)の設立総会が行われました。
 
 私たちが持っている空襲体験を、一人でも多くの人に知って頂く、この戦争が繰り返されるなんてことに賛成する人などいるはずがないと思います。今日の集会も体験を中心にしてお話を進めていきたいと思っています。

木村隆一さんの話(83)神奈川県川崎市(現役公認会計士)  (地図を示して)ここが私の生き残った場所です。この前に本所工業というのがあります。これがここの一年生だった方が、空襲のとき、学校はどうなっているか心配で、ここへきて学校の焼け落ちるところと、朝、焼跡を写生したものです(写生画2枚を示す)。
 私の家の近くには、このように十間川があって、ここに京成橋があり、これが錦糸公園、これが錦糸町駅。こういうふうに都電が通っていて、ここに大塚行の都電が通っていた。私の家はここです。この辺の所に小さなお菓子屋さんを親父がやっていまして、私はそこの長男12歳で(第二吾妻国民学校)6年生、妹は1年生、2人は小学生で疎開していました。小学生はみんな疎開していました。しかし中学へ行くための受験をする者だけが3月の8日ぐらいかな、東京へ戻った。私も疎開先に妹を残して、東京へ戻ってきて1日おいて3月10日。焼夷弾が花火を散らすようにヴワーッと降ってきたんです。たまたま私の家には突き刺さりませんでしたけど、焼夷弾が多くの家の屋根をつく抜け、家の中に転がり込んだということです。 後で分かったことですが、焼夷弾は海側から落とされてきた。火災がひどくなってどうしても消火では守れない、逃げる他ない。常々錦糸公園へ逃げるという父との約束をしていました。もう周りが火に囲まれましたからね。わたしのおふくろが赤ちゃんを負ぶい、3歳の妹の手を引っ張り、それに私の4人は、父親を残して先に錦糸公園に向けて逃げた。もう一人の1年生の妹は、疎開していました。われわれが途中の高い橋(京成橋?)に来て遠くを眺めると、錦糸公園のその先の方は真っ黒なんですよ。真っ黒な煙と火が押し寄せてくるのが見えたんですよ。これでは錦糸公園まで行かれない、私はここにいるといった。母親は父との約束なので錦糸公園へ行かないと、父が後から来るという。男手は最後まで残って火を消せと言われていたようですから、自分の家に火が付くまで残ったんです。「母親は絶対ここ錦糸公園へ行くんだ。家族の約束なんだから」と。私は「あそこへ行ったら死ぬ、私はここにいる! 動かない!」とか言って、ここで口争いになったのです。で、家を護って火を消していた父親たちがどうしようもなくなって、しばらく後から来たんです。そのとき、もう真っ黒な火が近づいてきていたんですが、父親たちは、錦糸公園へ行くために、とにかく黒い火の中へ突っ込めということで突っ込んだんです。それは風の方向によって変わる、地をなめるような火の旋風で、途中で火に巻かれ、前に行くことも後ろに行くこともできない。ところで鉄筋コンクリートの建物が一戸だけ残っている。その回転窓から何とかして中へ飛び込んだんです。下の窓は閉まっていますから。この建物は、(地図を示す)イチジク浣腸の3階建ての唯一鉄筋コンクリートの建物で、この川と電車通りの間の木造の家は、強制疎開といって類焼を止めるために、川に沿って100メートルぐらいの幅で、ずーっと燃える物がないようにきれいに取り壊されていて、この途中にある、唯一この鉄筋コンクリートの建物だけが強制疎開されていなかったのです。
 中に入ったら今にも火が付きそうに、もの凄く蒸し暑いわけです。この中にいた元気のいい人が窓に水をかけるんです。ふぇーっと爆発しちゃうんです。外がめちゃくちゃ熱いでしょ。ガラスが相当割れているんですよ。火が回ってきてみんなどうしよもなく呆然としているんです。この中のたまたまうちの叔父がいて、21歳、上等兵だったもんですから、ここで号令をかけて窓毎に班をつくって、窓を守ると言うことで何とか凌いだ。机とかロッカーを持ってきて窓に立てかけるとか、その他いろんなことをしながら、何とか生き残ったんです。この絵を見ますと、2階、3階の窓から首を出して除いている人たちがおりますけれども。周りは燃える物がないはずですが、逃げて来た人たちの荷物がいっぱい置いてあるわけです。猛烈な火が這ってきた時に、それが燃えたんですよ。この辺に死んだ人たちがごろごろごろごろずーっと並んでいるんです。みんな真っ白なマネキンさんです。みんな裸です。蒸し焼きですね。焦げてないんです。火がついて熱風で煽られますから、裸になっちゃう、着物が燃えちゃって風でとんじゃうんです。火がばんばんばんばん来るものですから、いくつかの防空壕が掘ってあるんです。下の方は掘ってあるんですが上は山になっています。入ろうと思ってもいっぱいで入れてもらえなかったので、われわれ親子は、この山を火よけにして耐え忍んだ。火の粉がどんどん飛んでくるんです、電信柱が燃えていましたから荷物に火が付くんですよ。仕方がないので親子はまたもとのコンクリートの建物へ戻ったんです。まだ火が移っていない側にしばらくいたんですが、ここに火がヴァーっと通ったんです。ここにおいた荷物が全部燃えたんです。大八車で箪笥など積んで空き地に置いてあったから、みんな燃えた。そこを私が後の帰りがけに通ったとき、両手の手をついたそのままの形で、黒焦げになって死んでいる人がいました。

 いまスカイツリーのあるここには、叔父たちがいて助かった。ここには東武電車の電車を入れておく操車場だった。そしてここに東武の本社があった。この辺で助かった人もいるんですが、われわれはこの辺にいて火が通って火が付きましたもんで、またもとへ戻ったんです、火の中を。電信柱はまだ燃えていました。燃えていた大八車や荷物など、強風でみんな吹き飛ばされていた。その時3歳の妹は、何も覚えていないが、足の裏が熱かったことを覚えていると今でも言っているんですけど、この辺を歩いているうちに裸足になっちゃったんでしょうね。まだ火の残っている中を通って、また防空壕の近くで過ごしたんですよ。周りも火が付き始めました。ここに京成のホームがあって、こちらが空いているんです。表側は全部3階建てのコンクリートの京成本社。本社は焼けずに残っていたのに、ここの三階建ての窓が一斉にブヮッと割れまして、中が爆発したんですよ。火が私がいたこの辺まで20メートルから30メートルぐらいブヮーッと噴出した。チリチリと火傷しそうだったですよ、凄かった。
 昨日電話がかかってきまして、岡部さんという芸術家の方なんですけど、実はこれを見てたというんですよ。彼の家は団子坂で、東大の横の高台にあって、こっちの方がよく見えるところにあるんですね。凄いことになっていると思ってみてたら、火柱がブァーっと立っている中に、ワーッと横に火柱が走っとる。それを絵に描きまして、北砂の資料センターに寄付しました。問い合わせたら「飾ってあります」という返事でした。いずれ見たいと思っています。
 親父は、火が通りぬけたあと、そのとき生き残って申し訳ない感じなんですが、屋上に上がって周りを見たら、もう完全に廃墟になっていて、親父たちは、みんな死んだと涙を流した。われわれだけを残してあとみんな死んだと思ったと言っていました。
 というような状況で、呆然としてここにたたずんでいて、1時間、2時間するうちにだんだん落ち着いてきて、この辺行ったり来たりして、家に戻っていいものかどうか迷っていたら、家の親たちとここで再会するんですよ。それから家に帰ったら、もう何んにもない。水道の蛇口が残っているだけでした。

安齋和穂さんの質問 「イチジク浣腸」の会社の絵を見せていただいたんですけど、私の母も業平に住んでいて、娘時代にイチジク浣腸に務めていたと言っていした。いま絵で、イチジク浣腸は焼け残ったと教えられました。これは3月10日の昼間の絵ですか。」

木村さん「昼ごろ歩いたとき見たという方の絵です。」

安齋さん「この中へ逃げた人たちは、生きられた人がおられるんですか」

木村さん「そう。で、今のイチジク浣腸の会社を探して行ったんです。それでイチジク浣腸の社史なんですけど、(見せてもらったけど空襲被災のことを細かくは)書いてないんです。その辺りにあったと。3月10日の大空襲により、当社工場・墨田区業平橋当社焼失。一部復興したと書いてあるんですけど、細かくは手を付けなかったみたいです。(斎藤はあ、そうですか)社史にも残っていませんということです。(斎藤はあ、そうですか)いまいる人たちも聞いたことがありませんということです。何か悲惨です。」

林 恵子さんの話
 「私の父親も錦糸町にあった精工舎に務めていたんです。母はこのイチジク浣腸に若かりしころ務めていたんです。で、戦後経って父親の厚生年金というのを調べていただいたんです。そうしましたら墨田の社会保険所から、父の精工舎厚生年金証書が見つかって送ってきたんです。母がイチジク浣腸に務めていたと言うことをなんとなく聞いておりましたから、こちらの方も調べてくださいと言ったら、その制度ができるまでの資料がないので、厚生年金証書はないということです。いまお話を伺って、家族の遺体も骨もありませんが、イチジク浣腸が残って、生きた人がいると聞いたときに、あぁ、そこが安全だと分かっていたら、そこに逃げてくれればよかったなあと、残された子供の気持ちとしては、ちょっと率直にそう思ったものですから、いまこういう絵を見せていただいて、何か懐かしく思っています。私は当時3歳で記憶にはありませんですが、いいお話を聴かせていただいて、本当にありがとうございました。

木村さん イチジク浣腸の社史としては、消したいらしいんです。悲しい思い出を書いてないんです、一行しかないんです。「3月10日東京大空襲により焼失」これだけ。でも社史は相当厚いんですよ。お話ししているうちに、そこのお年寄りの方二人が、ちょっとお話がありますが、と言って別の部屋に連れて行ってくれて、先々代の社長から聞いたことがある。だけど語り伝えられてないと言ったんです。

星野さん 当時私は学生で、焼け跡の整理をやっていますが、イチジク浣腸の後日談を話しますと、イチジク浣腸の跡はきれいになっていましたが、われわれも3階から全部掃除したんです。その時に、入口にお母さんと子どもの焼けた跡の油が入口の階段の所にあったのを強烈に覚えている。その後、いろいろと貴重な建物ですから、いろいろな人が入りましたけど、最近まで使ったのは、朝日信用金庫です。その後は、あれを立て替えて朝日新聞になった。いま言われたように途中で無くなりましたが、しばらくずーっと残っていましたね。それからね、一時期、元は太平町錦糸町にあった憲兵隊の本部になった。後で引っ越すまでの短い期間。そこから押上まで全部整理して、訓練場になって、そこでわれわれ学生は週に1回ぐらいは呼ばれて、匍匐訓練だとか、突撃訓練をやらされた場所です。(木村何も無くなっちゃって、広場になったんですからね。)そうそう、だからそこで実物大の木製の戦車の形をつくって、当時14歳のわれわれが木の箱に石を入れてそれにぶつける訓練をえんえんとやらされた場所です。

木村さん みんな竹の棒の先にダイナマイト、爆薬をもって戦車に突っ込む、戦車のお腹、外は頑丈にできているけどお腹が弱いんだと、うそかどうか知りませんよ、そう言われて、爆弾を担いで、あるいは竹の棒の先につけて、あるいは爆弾をしょったまま戦車の下へ飛び込めと、そういう訓練をさせられました。笑い話にもならないそんなことをやっても駄目だろうと・・・。うちの親父がね、このあと兵隊にとられるんです。徴用といって特攻隊の兵器を作っていたんですけども、親父は足が悪く背が小さかったもんですから、丙種合格で絶対兵隊に行かないと思っていたら、最後に兵隊で招集されたわけ。そしたら剣もなければ、何もないんだそうですよ。竹べらしょってやっていた。あとえんぴ(シャベル)があって、房総半島の海辺に連れていかれて、えんぴで穴を掘って、上にダイナマイトを持って潜っているんですって、それで戦車が上がってきたらドンと衝けという訓練をしていたそうですよ。終戦の2カ月ぐらい前の話。3か月前に招集されて竹べらで、あとえんぴだけは何とかあった、まあシャベルのことですよね。(笑い)

安齋さんの話 「イチジク浣腸」さんの話が出たんですけど、私は埼玉県の熊谷市というところの出身で、わが家は、先祖代々江戸時代から熊谷の薬問屋で、当時東京でも本郷と日本橋と浅草橋にも店を構えていたんですね。熊谷で製造して東京でも販売していてて、東京大空襲で6人ほど未だ遺骨はが帰ってきてないんですけど。生き残った者が、私から見てどの程度の親戚なのかちょっと分からないんですけど、父が昭和3年生まれの跡継ぎだったんです。父と祖父の話によると、浅草橋に生き残った者が、イチジク浣腸さんのお知り合いの同業者だったので、その後見に行ったらしいんです。そしたら、もう引き返してきたと言ってました。何か大変なことになっていて、社史に書かれていない事情も、当時のイチジク浣腸さんの経営者最後の方に後々聞いたところ、やはり医療関係者なので、その辺を逆に写真に残せなかったらしいです。やはり人の命を守ってなんぼという世界の人間なので・・・。実はうちの実家の社史もそうです。熊谷も空襲に遭っています。で、東京の大空襲でも店で従業員とか親族を失くしていますけれど、やはりうちの会社の社史もその辺を書いてないんですね。そこはやはり医療関係者として、無念さがあるというのをイチジク浣腸さんの関係者の方から、しばらくして落ち着いたときに伺ったそうです。(木村会社が空襲の悲劇を引きずらないように)そう、敢えて場所もそれで移したのだと伺っております。

木村さん 先ほど話したように、私の親父が丙種ですから兵隊にとられないと思っていたんですが、徴用というのがあって特攻機を作っていたんですね。徴兵されて兵隊に行く前は、川崎の三菱の工場がいろいろありますが、そこで特攻機を作っていたんですよ。兵隊から帰ってきて話すには、特攻機をベニヤで作っていた。これで飛ぶんだろうかという話をしていたことがあるんです。私の想像ですけど、爆撃機に吊られたベニヤ板の爆弾みたいなものを人間が操縦して落ちていくもの(人間爆弾)を作っていたんだと思います。呉の海軍記念館に行きましたら、展示された回天(人間魚雷)は全部爆薬ですよ。操縦室は余裕がなくて動きがとれなく、痩せた人しか座れない。前に進むしか舵がないんです。右左はありますけど後ろに戻れない魚雷ですね。魚雷はうまく当たらないから、人間を載せて操縦させるというもので、それが海軍記念館の一番奥のメインの所に飾ってありますよ。その手前が戦艦大和の模型です。うちの親父は、これは作ってなかったなと言った。私は仕事で全国まわって歩いたが、このようなものは瀬戸内海の海岸に打ち上げられたままになっているものがたくさんありましたよ。瀬戸内海に工場が多かった。親父たちはそれより酷いものを作っていたのではないかと思うんです。それで親父が、5月頃どうもわれわれの年齢で丙種合格の奴が徴兵されていると、兵隊になっていると言うことを聞いて、わざわざ焼跡の向島の役所へ行って、「我々と同じ年齢の者が来ているようですが、如何でしょうか」と訊いたら、「来ている、4月の始めごろから来ている。」もう1カ月も経っちゃった。「逃亡兵とみられるから内緒で密やかに入隊してください。」という話なんです。その晩に親父は夜遅く密やかに家に帰ってきて、朝暗いうちに家を出るっていうんだ。出征するというわけ。で私が一人だけついて、茨城の田舎から溝の口に溝の口連隊というのがあって、私はそこの門の前まで行きました。二人きりですよ。門に入る人はもう一人おりましたけれど、憲兵につかまるといけないので、誰にも見られないように、村の人に見られないように、朝だれも起きない時に出てきたと言うことですよ。その人お相撲さんだったんで、洋服から靴から全部無いというので、その人、除隊したそうです。うちの親父は竹べらを持って、身体は丈夫ではないけど、竹べらを持って房総半島の向こう側の砂浜に行って、防備隊として上陸してくる戦車に体当たりしろというんで、その穴を掘っていた、そういう話をするんですね。
 普通は招集というと、私小学校5年生ぐらいのころ、兵隊が出征するときは、押上の通りを鐘や太鼓やラッパを鳴らして「勝ってくるぞと勇ましく・・・」と送ったわけですよ。在郷軍人会の皆さんと一緒に。それに比べて先ほど述べたように、うちの親父は密やかに、非国民というか、逃亡兵みたいに入隊したわけです。

 それで終戦になって帰ってきたんです。その時毛布1枚持ってきたんです。唯一財産。押上で焼けて、横浜で焼けてますから、すっからかん何にもない。毛布が唯一の貴重な財産。食い物もない。戦前は配給があったんです。戦争が終わったとたんに配給がとぎれとぎれになっちゃってね、食うや食わずですよ、何もない。どうしたか。いろいろありますけど闇屋をやったわけですよ。近くからお米を仕入れて、東京に持ってきて売る。タケノコ生活は、家にある品物を農家にもっていって売ったり交換したりしては生活を続けることで生き残るわけですよ。でも、うちはタケノコ生活をする皮(品物)が無い。生きる手段として闇をやるしかない。私も朝真っ暗なうちに闇米を背負っていった。列車は一日に2回しか通らない、田舎だから。私もくっついて闇米担いで行きました、少しでもよけいに運べればお金になるわけですから。次の日に闇米を買うために、東京へ持っていって現金に換えないと、買えないからね。それでね、私は水戸線の川島という駅から乗って、昔の列車は遅い、石炭がろくになくて泥炭みたようなものでのそのそ走って小山っていう駅に近づくと、ホームに誰もいなくて、黒い奴がズラーっと並んでいる。ぞーっとしましたね、警官。当時この列車はほとんど90パーセント闇屋です。その日の飯を食うために闇米をやっていたわけです。私は警官の列が見えて、ぞーっとした。途中までくると逃げ出す奴がいる列車走っているのに飛び降りる。それを待ち構えている。ホームの反対側にもいるんだ、気が付かなかったけどね。全員捕まっちゃったね。捕まえて何をしたか、有無を言わせず、二階の線路を渡って改札口へ行く途中に、でっかい袋が三つも四つもあって、そこえ米をあけさせるんだよ。名前も聞かなきゃ何にもしない。みんな空けさせてはいさようなら。何だこれはと思いましたね。このやつら何を食っているんだ。怪しいぞと思った。警官も怪しい。生きているんだから。当時、裁判官の山口判事さんが餓死。法律を守らせる立場の者が闇米なんて食えない、手を出せない。餓死して死んじゃうんです。この警官隊は餓死して死ななかったわけだから(笑い)怪しいなあと思うのが、私のそもそもの始まり、世の中をみたという感じ。私は中学一年生、なまちょろかったから疎開でいじめにあっていた。これを題材にして弁論大会に出たんです。当時まだ階級制が激しかったから、1年生から5年生まで甲組、乙組に分かれて組対抗の弁論大会だった。その中から1年生の私がやるぞと手を挙げた。それでこの闇米の話をしたんです。相当迫力があったらしいんだな。準優勝しました(笑い)。5年生の東大へ行った大秀才がね、日本の家族制度について話して優勝。私の方は、何だこれは? どうしてくれる?というクエッションマークのまま率直にアピールしたんです。駐在の息子がいて一生懸命目を光らせて、私の方を睨んでいました。
 このような情景の思い出がたくさんありますが、最後に、私はなまっちょろいものですから、いじめ易かったんでしょうね。いちゃもん付けて殴りかかってくるわけですよ。殴られたら殴り返して、ぶち倒すぐらいやった。一年生の中で、あいつなまっちょろいのに結構強いぞということで評判だったんですね。それで決闘を申し込ままれましたよ。立ち会いに2年生から5年生みたいのが10人ぐらい周りをとり囲んで、相手はもちろん一年生、チェーンを振り回してくる、・・・と言うことをお話ししたいんですけど、この辺、ちょうどいいところで終りましょう(笑いと拍手)。

 最後にもう一つ、ここに憲法前文をコピーしてきました。みなさん後で分けてください。9条というのは皆さん十分ご存知だと思いますが、私は憲法全部気に入っていて、特にこの前文が気に入っているんです。2行目に、「われらとわれら子孫のために」この憲法をつくると書いてある。で、真ん中ぐらいにきて「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにする」ということが書いてある。最後の一節には、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」と書いてある。全部読んでいただくとなかなか名文ですよ。9条だけでなく前文も素晴らしいです。

吉田由美子さんの話(75)茨城県鹿嶋市
 私は、墨田区業平3丁目で生れ、育ってきましたけれど、3月10日の東京大空襲で、両親と生まれて間もない妹を失くしました。この6月20日に、政府に対して私たちは、
「女の平和 6.20国会ヒューマンチェーン」という行動を起こし、国会を包囲しました。その時に皆さんにお話をさせていただいたことを、ここでお話をさせていただきたいと思います。

「私は3歳のとき、東京大空襲で家族全員を失くし戦災孤児となりました。あの日からもう70年が経ちました。焼け野原に放り出された孤児は全国には12万人もいました。孤児たちは国からたいへん粗末に扱われました。中でも山奥に連れていかれ、ごみとして捨てられた孤児たちは、飢えと寒さで次々と死んでいきました。家族を失くした人、怪我をした人、住む家を失くした人、孤児になった人など民間空襲被害者には、国は今もって援護も補償もせず、放置したままなのです。一方、軍人や軍属には手厚く補償を続け、命に差別をしているのです。自然の力で起きる天災は、私たちは止めることはできませんが、戦争は人が引き起こす人災です。止めることができるはずです。いや、止めなくてはいけないのです。
 「6.20 国会ヒューマンチェーン」
主催:女の平和実行委員会
 戦争に反対し平和を願う女性が、6月20日「国民を無視し、憲法を無視し、戦争立法を急ぐ安倍政権の暴走にレッドカードを」と国会議事堂を囲み、“赤いファッションアイテムを身に付けて”手をつなぎました。
 約15,000人(主催者発表)の女性(男性も!)が集まりました。
 命こそ宝は戦争によって無駄死にさせられました。生きたくても生きることのできなかった命は今何を思っているでしょうか。戦争をしない平和な代がずっと続くことこそが、亡くなった多くの命へのせめてものお詫びと手向けになると私は信じます。」
 戦争はもうこりごりです。大切な平和のために、皆さんと共に頑張っていきたいと思います。

安齋さんの話(41)墨田区本所
 うちは先ほど話した通り、薬の卸と製造の業種だったので、祖父は歳だったので徴兵はなかったし、父は10人兄弟の長男で、終戦当時17歳、今の高校生ですね、まだ徴兵にとられていなかったんですね。
 もうポツダム宣言を受諾していて、8月15日に天皇陛下から重要な話があるらしいと言うことは関係者を通じて熊谷市民は知っていました。なので多分戦争はもう終わるんだろうというふうに、市民は安堵して、油断して寝てたらしいんですね。そこに8月14日午後11時半、B29が市街地を標的に飛んできて、父は10人兄弟で下から三人、乳飲み子の妹を失くして(熊谷市の死者266人)。本来跡を継ぐべきだったんですけど、他の親族に譲って教員になりました。というのは、やはり残された子供たちに教育をと考えて、一番の被害者が子ども、そして女性というところ。教員も空襲でだいぶ死んでしまって足りなくなってしまったんですね。教員になったりして、反戦活動を通じて、市議会議員から県会議員になったんですけれど、やはり、私も2歳の子がおりますが、反戦というのは、特に子どもができて思います。先ほど回していただいた被災の絵を見ても、独身時代は平気で見られたんです。でもいま子供がいるとみられません、辛すぎて。自分と重なります。

 私が、子どものころ、実家の建て替えのとき焼夷弾が出てきたんですよ。それで生まれた土地を手放して転居したりした。戦後30年経って生まれた私でもそういう経験があり、それだけ戦争って悲惨なんだなって本当に思っています。やっぱりそれを後世に残したくないし、今後やっぱり男女平等という中で、女性でも徴兵にとられるという・・・米軍はそうですね。女性でも軍人がいらっしゃいますし、そういうことを考えると、私たち世代というのは、ほんとに男性は働き、女性は子育ての時代で、自分たちの日々の生活で一杯いっぱいですが、祖父や祖母、父母から聞いた戦争の悲惨さを何とか戦争の悲惨さを残していこうと思っています。中には、語りたくない、一切口にしないという身内もいます。
 私の父は当時17歳、きっかりと記憶しています。母は、当時7歳だったので、覚えているんですが、幼さ過ぎて語りたがらないんです。ショックだったんでしょうね。なので、私たち祖先たちから受け継がれたことを大事にしたい。
 私たちの世代、何となく反戦活動って解らなくて、積極的にやる時間が無かったり、無関心だったり、日本が戦争になるってことに現実味がないという感じがあるんですね。でも、最近は現実的にあるという前提で戦争反対をしていきたいなと思っております。ここにいらっしゃる方々のご経験を聞いて、私も子供たちとか周りの人たちに話していけたらいいなと思っております(拍手)。

河野洋一さん(63)墨田区向島
 私は昭和27年生まれで、出身は九州の大分県です。大分でも東京大空襲と同じように大分空襲があって、大変な被害が起きています。東京に住んで30年が過ぎました。私が大分を離れる直前に、大分市内の浦川という河川改修のおりに、戦時中に落とされた不発弾が見つかって、大分でも戦争の傷跡が今で残っています。
 私は、親父と戦争の問題でそう深くは話し合ったことはないんですが、断片的に覚えていることをお話し、戦争の悲惨さを共通のものにし、戦争を二度と繰り返してはいけないという立場でお話しておきたいと思います。
 親父は甲種合格で健康に恵まれていて、南方のフィリピンに送られ、文字通り前線で戦火を交えてきました。そのときに米軍の5・6センチの銃弾を肩に受けて負傷した。それがために幸い生き残った。すぐ摘出したところ、片に入った銃弾が太ももの所から出てきたという。
 いま後方支援ということが国会で問題になっていますが、ことばを変えれば「兵站」、この兵站なくして戦争はできない。当時この「兵站」がなく、南方に送られた前線の状況は、食糧はまったく無い。もう自分でトカゲや蛇やらとにかくありとあらゆるものを採って口にした。自生しているバナナなんかも、そのまま食べても食用にならず、地中に埋めて時間が経つと食用になるんだと言っていました。
 私はもう63歳になりましたが、30年前に大分におきまして県議会選挙で日本共産党の公認候補で立候補したことがあります。先ほどの私の父が受けた銃弾を木綿の布に包んで仏壇にしまってあるのを持ち出して、それを戦争の悲惨さを語るのに使ったこともあります。
 今日のテーマは東京大空襲ですけれど、共通することは、戦争というものは繰り返してはいけないということです。戦争というのは東京だけでなく沖縄まで日本中焼け野原にしています(拍手)。

林 恵子さん()墨田区吾妻橋
 私は墨田区の吾妻橋に住んでいまして、うちの母もずーっと墨田区に住んでおりましたので、空襲の日には墨田公園に逃げて、どうやって助かったのかと訊くと、本人も覚えていないんです。父は埼玉県の農家の出身で三男坊だったので、戦争のとき家も継ぐこともないし、何もすることがないということで、知覧の特攻に志願をして行って、その時、父の母であるお祖母ちゃんは、行かないでくれと泣いたんだという話を聞いています。幸い終戦になったので父も特攻に行かなくてすんだわけで、それを思うと、自分がここにいるということはほんとに不思議なことだなと、まかり間違えれば今私は存在していないぞ、という命のつながりというんでしょうか、それが戦争によって絶たれるということは、ほんとに理不尽なことだなというふうに思っています。そういうことを伝えていくっていうことは、お話を聞いて私たちがこれから伝えなければいけない。やっぱり親から聞いたりすることは、一番身近であったりするんですけど、私職場は保育園なので、いま、吉田さんが3歳で孤児になられたという。大変だったろうという想像がつかないんですけど、もしお辛くなければ、何か、どうやって現在まで元気でいらしたのかなと・・・。3歳児といえばまだおむつもとれていない子もいるし、保育園の中では自分でお食事といったって、この子たち一人ぼっちになったらどうするんだろうと、フーッと風がよぎるように感じたので、もしよろしければ、参考になるのでお聞きしたいなと思って‥‥。

吉田さん  お答えできればと思います(拍手)。私は3歳で、親の顔も、声も全く記憶にありません。ただ記憶にあるのは、さっき木村さんから、妹さんが逃げるとき裸足になってしまって、足の裏の熱さを感じたというお話がありましたけど、私は3歳でたまたま業平の家に住んでいたとき、3月9日の夜、父が精工舎に勤めていて、東京も危ないから、お前たちは(父の実家のある)新潟へ疎開をしてくれと、ほんとに偶然のことが命に繋がったんですけれども、夜引っ越しの準備をしなくてはいけないんだけれども、私がまとわりついて、荷造りが出来なかったんだそうです。母の実家は幸いにして業平からちょっと離れた隣町が横川という町だったそうです。そこで致し方なく私を一晩だけの約束で預けたんだそうです。それで両親の元をはなれた運命の分かれ道でした。それが一生の別れです。おんぶをした母を迎えに来た母の妹が私をおんぶしてくれて、逃げた所が小松川方面だったと聞いています。残ってしまった両親と、生まれたばかりの妹は、業平の所からどういうふうに逃げたか分かりません。遺骨も残っておりません。そういう中で、私の業平の家もない、母の実家の家もない、翌日から住む所がありません。それで母の親、お祖母ちゃんが群馬県の高崎の出身だったと言うことで・・・高崎に移動しました。高崎で1年ぐらい過ごし、また東京に戻ってきて1年ぐらい過ごす。で、親戚を転々とする生活が始まりました。母方にいたときは近くに実家があって行き来をしていて、愛情もいくらか感じていたんでしょうか、大事に育ててもらった記憶があるんですが、今度母方の方から父方の新潟へ5歳ぐらいで分かれていくんです。会ったことも見たこともない親戚です。ま、他人とほぼ同じですよね。それから私の戦争が始まった。もう嫌な者を押し付けられ、扱うわけですから、その日からお荷物ですよね。それで言われたことは、「お前も親と一緒に死んでくれればよかったのに、何でお前は助かったんだ。死んでくれてさえいれば、お前の面倒見なくてすんだんだよ。」と言われたことが大変ショックでした。それまで、私は親が迎えに来てくれるもんだ、と信じて待っていたと思います。小さなときはきっと周りも気を使ってくれて、親の死を知らせなかったんですよね。いつか会えると信じていたのが、叔母から言われた言葉が大変ショックで、今でいえばストレスで胃腸を壊しました。環境も新潟は雪国でまだ慣れていません。間もなく小学校に入学する年齢でそちらへ移されましたから、私、昭和23年4月が小学校入学です。そのころに叔母に親の死を知らされたこと、環境になれていないこと、新潟の小学校に入るんですけど、本当に淋しいどん底の中で、その言葉を受けて胃腸を壊し、下痢になっていくんですけど、その時に雪の中に連れ出され、叔母から冷たい水をぶっかけられ・・・。ほんとにいやな者の面倒をみるものですから愛情がありません。その場で死んでくれればよかったと思ったろうと思います。放たれて、私は意識朦朧となってやっと台所に辿りついて、水も飲むなと言われていたんですけど、水を飲みました。水を飲んだおかげでここで命をつなぐことができました。脱水症状を起こしていたんだと思います。そんなこと知りませんけど、叔母に飲むなと言われていたお水を、怒られてもいいと覚悟して飲んだのが6歳でした。で命を今日までつないできたんですけど、そんなふうにして、愛情があって育てられたということは決してありません。浮浪児という孤児の子どもたちがいました。私は浮浪児にはならないで済んだんですが、親戚といっても決して暖かく迎い入れたわけではなくて、最終4軒目を転々とした中で12年間過ごすことができましたけど、過ごしたと言っても、お手伝いさん、親戚と言っても同居人といった立場で12年間を過ごし、食べさせてやる代わりに働きなさいと、そういうことがずーっと繰り返されて、子どもにとってはね、3歳から育ったらお父さん、お母さんと呼びたい年齢で、そこから禁句です。学校に行ってきますと言ったって、行ってらっしゃいという言葉は無し、帰ってきてただいまと言ったって、お帰りと言う言葉も一回も聞いたことないです。だから子供として当たり前なことが、戦争でもう当たり前でなくなる。子供がね、お父さん、お母さんの空気のような存在が無くなってしまう、失くしてしまう。これは生きていく中で本当に辛かったですね。寂しくて泣くと、その泣いたことが癇に障るらしくて、叩く、虐待をするんです。だから子供ながらに辛くても悲しくてもなくことは我慢しました。我慢していかないと生きれない。いつしか誰が教えるんでもないんですけど、生きる中で、泣くことはやめようと、自分の中で胆に銘じていました。だから今でも泣くことは下手です。泣いてまた暴力で虐待されるともっと辛い。子どもというのは愛情があって育たなければいけないのですけど、愛情がない中で育ってくると、愛情欠乏症みたいになってしまって、優しくしてくださる方みな大好きです。でもそれが枷(かせ)になっていると思います。特に私の自分の精神的なものが小学校の3年生の時の絵に出てきたんです。担任の先生が、色をあまりにも薄-く塗る絵を描くんで、何かこの子にはあると、「由美子さんは心に力がないね。もっと元気を出しましょう」と言われたんです。で、先生が家庭訪問して下さったんですけど、それがアダになっちゃって、もうそれこそ「学校へ行って先生に何を言いつけたか。」と責められたけど、本当に言ってはないんですよ。ないんだけど何か自分たちが後ろめたいことをしているものですから、言われたと思って「いえ、いえ」と言って、つねるは叩くは大変な目に遭いましたけども、支えて下さったのは学校であり、先生でした。そのおかげで私は命を繋げたかなと。放課後1時間ぐらい残して下さって、話も聴いてくださり、辛いだろうけど一生懸命生きていれば、報われる日がくるんだよって、こんな先生の言葉を信じてきてよかったなと思います。わたし親に育ててもらいたかったと思うし、子は親の背を見て育つと言いますが、親の背中を見て育ちたかったなと思いますが、見る背中は3歳からはありませんでした。そんなふうにして親の愛情には恵まれませんでしたが、学校の先生とか、その周りにいた方の支えがあって、今日まで生きてこれたと思います(拍手)。

星野雅子さんの話(84)墨田区押上
 私は幸い家族も傷害にならずに今日に至りました。空襲の体験として、一つは、3月10日の朝、避難していた錦糸公園で夜が明けたので、家へ帰ろうと言って、公園から一歩外へ出たら、一面が焼け野原で、上野駅の建物が見えたんですね。住んでいた家は、今のスカイツリーの傍にあって、帰る途中に死体を踏んだり、見たりした記憶がないんです。多分、あまりにも異様なうつつ(現)に、死体という認識がなかったのかなと思います。焼跡を帰ってきた時に、父が自分の家の焼跡に呆然と立ち尽くしている姿が忘れられないです。家の前の電信柱が半分焼けて半分焼け残っていたから、父は、ここは最後に焼けたんだなと言っていました。

それから、私と八つ違いの兄が出征ときは夜だったんですが、町会の人が来て激励の挨拶したりしました。私は、お兄ちゃんが兵隊に行くのをちょっと誇らしく、嬉しくなって、でも姉の姿が見えないので、どうしたんだろうと家の中へ行ったら、姉が部屋の隅で泣いていたんですよ。弟を送り出して泣いたところを他人様に見せられず、ひっそりと泣いていた姿が今も思い出されます。
 もう一つ、一番上の姉は疎開していて、そこへ居候で行ったんですけど、そこから少し在の方に飛行場があって、そこから特攻隊に行く人を万歳、万歳と旗を振って見送り、送られる若い18ぐらいの男の人が、一人ひとりにこやかに敬礼していく姿が印象にあります。でも、その時は、何か特攻隊というものに憧れるような風潮でした。私たちが飛行場から歩きながら帰ってくるとき、ちょっと離れて都会の人らしい身なりの若い女性の人を見て、一緒にいた私より年配の人が、あの人特攻隊に行く人の家族か恋人じゃないの、あんなにしおれている、という。この悲しい状況も強く残っています。

 8月15日は、私は疎開したいんだけど、行く先は栃木県の中島飛行機という工場に動員されて、お前は東京の子で体はちっちゃくて体力がないから行かなくてもいいという。父は、きっとこの戦争は長くないと思ったんでしょう。家にいると徴用されてしまうので、知り合いをたどって材木屋さんの統制で協同組合になっていたところへ給仕みたいな形で行っていたんです。そこで、お昼に重要な話があるから、みんなラジオの前に集まるようにと言われ、そこで放送を聞いて、戦争は負けたと、何で負けたんだろうと打ちひしがれて帰ってきたら、大きい姉が子供をおんぶして待っていたんですね。まあちゃん、戦争終ったのね。東京へ帰れるわねってすごい嬉しそうに言ったんです。でも私は姉の気持ちと逆であって、何で戦争に負けてこんな嬉しそうに、と思ってぷいっと家の中へ入って行っちゃったんです。その時の姉の笑顔。私も早く東京へ帰りたいと思っていたんですけど、先ほどどなたかおっしゃっていましたが、当たり前の生活ができないのが戦争だということを、体験者として話させていただきました(拍手)。

星野 弘さんの話84)墨田区押上
 私はね、10日の空襲の火焔とゴミで目が火傷状態。中山の在、避難所の空き地にいましたから近所のお母さんたちが助けてくれて治った。12日の朝、初孫が高田馬場にいるから、その親族の安否を確認してきてくれとおふくろに言われて、5時ごろ発って一番最初に大量の死体を見たのは、この北十軒川の福神橋。急ぐ途中、吾妻西3丁目の自分の昔の家の焼跡に、トタンに「3人無事、いま中山にいる。」と書いて、初めて冷静になって明治通りの上から見ると、この土手に引き上げられた遺体がずーっとある。川の中は遺体がびっしりで、水が見えるのは遺体と遺体の間しか見えない。初期の段階はそれだけだったんですが、後になって他の川の遺体と違うなと感じている。それは、大日本機械東洋モスリン吾妻工場:今の文花団地、この先が大日本機械東洋モスリン亀戸工場:今の立花団地は、昼夜5千名の婦人労働者、10代の後半から20代の前半の若い女性の遺体、それだと言うことに最近だんだん気が付いてきた。その中に、戦争中ですから普通は国防色の作業服を着ている。ところがいま思い出すと遺体の中に、自分の着物で作ったモンペ姿の女の子が随分いたな、と気が付いた。みんな寮にいるでしょ。私の家は寮の反対側、今の中小企業センターの前側ですから、二階建ての寮からみんな出てきて演習するのを見ていた。だから、女性たちの中には、様子をみていてもう逃げ場がない、駄目かも知れないと、わざわざ作業服をとっときの着替えのモンペ姿に換えて逃げてきて、ここまで来てもう火で逃げ場所がないので、川へ飛び込んで溺死した、という女性たちが沢山いたんではないか。私は、最初はこのような遺体を単に犠牲者として話してきたけれど、あまりにも冷淡な説明だったな。そこにいる一人ひとりの人たちの、その死に至る時の思いや辛さや憤り、それを自分に本当に感じて話をしなくてはいけないなと思っていることです。私は遺体の収容をやった。中学生で学校に軍から招集されたから、遺体収容の経験のある者は押上の京成橋の所に集まれと、15人から20人ぐらいいたか、その時は一斉に下町の中等学校の子どもたち全部招集された。全部で8つの学校から集まったのは58人。私の学校は8人しかいない。この8人は担任の先生から、おまえ知っている奴の所へ行って連絡してこいと言われて、足立、葛飾、江戸川、知ってる学友の家を8軒だけ回ったの。それが第1回目の集合。最後は大分増えましたけどね。今でもありますが、ここに公衆便所があって階段が付いていて、川の中に木造船の船底が見えているんですよ。当時の木造船といったって鉄工所の鉄材を運ぶ船で大きい。そこへ最初中尉それから上等兵がきて、上からのきついお達しがあってということで、われわれも緊張したわけですが、この見えてる船底を同じ方向で引っ張れというんですよ。とび口が用意してあって、とび口をガタンと刺す。そしてヨイッショ、ヨイッショと引っ張る。こっちへ引っ張るとね、底から遺体が上がってくる。ポコッと。下に遺体が吸い付いている。3月を過ぎて6月、3カ月ぐらい経っている。それでも腐っていない。今までの遺体は真っ黒焦げの遺体だとか、火傷で見るも無残な姿だとか、先ほどありましたようにマネキン人形、これはまともに火を浴びて、すっぽんぽんになって男女の区別もつかない。そういう遺体収容をやりましたから恐怖心が薄れている。ところがここから出てくる中には、生きているような姿で上がってくる。それを見るとハッとする。いまスカイツリーができましたけど、ここはそういう場所です(拍手)。

高橋輝雄さんの話()墨田区大平
  戦争があったということは、伝えていかなければいけない。うちの兄貴たち3人、母親と一緒に群馬に疎開していた。ところが、食べ物がなくて母親が死んじゃった。父は、子ども3人抱えていますからね、生活できないということで、後妻をむかえなくちゃならない。後妻の子が私です。戦争中の話は母親から聞きました。3月10日、鶴見川から東京の方を見たらもう真っ赤。横浜にも空襲がありました。焼夷弾が落っこちて、怖くて隣のお祖母ちゃんが一緒に逃げて行ったのに、怖くなって逃げ帰って次の日に行ったら、もう丸焼け、そのまま亡くなった話しをよく母親から聞きました。その関係というわけではないですけれども、私も教員になって、一生懸命教えてきたんですけれども、今日も本当に生のお話し、歴史と合わせて一つのステップとして伝えていかなければならないんだなあ、本当に今日はありがとうございました。

榎本喜久治さん(81) 事務局長 墨田区大平
 遺族会としては、このような草の根の集まりをやりながら、空襲体験を伝えていきたいと思います。戦争と空襲の問題について言っておきたいという方も、沢山おられると思います。いろんな形で今の若い人たちと対話を広げながら、この夏を頑張って乗り切るということで、今日の終りとします。

                
記録者 世話人 西沢俊次