2011年の311日、震度9の地震とそれに伴う10m以上の巨大な津波。海が防波堤を越え、人々と街の全てを飲み込み、押し流していく様子がテレビで放映されました。翌朝には昨日の街並は消え、無残な瓦礫の広がり。人々はどこへ行ったのだろうか。死者1万、行方不明者は1万7千、避難している人は25万という(326日現在)。その上、福島原発被害の予断を許さない、恐ろしく深刻な危機的事態を、逐次テレビと新聞、それにネットが伝えています。

亡くなった方々、遺族の方々、こころから悼みます。まだ行方の分からない身内の家族の心中は察するに余りあります。 
 直ちに被災者の救助を、物資を。他国からも支援がきています。われわれの政府は、災害対策基本法に則るばかりでなく、被災者の損害に対して、憲法の定める最低限の生活を保障するために、既に制定されている、下記のような救済・援護を諸法を実施しなければなりません。(憲法第3章)
            「災害救助法」
(昭和22年)
            災害弔慰金の支給等に関する法律(昭和48年)
          「被災者生活再建支援法
(平成10年)
                          その他


 この津波跡の風景は、前大戦末期の都市空襲跡の風景を直ちに思い起こさせます。194412月から翌年815日まで毎日のように、東京、横浜、名古屋、大阪、神戸、他430の大小都市が無差別に空爆されました。赤い火の海の底を逃げまどい、火にまみれて倒れ重なる人々、冷たい河にとび込む人々。
 暁に、街は消え、路に河に死屍累々。そして広島、長崎。全国で死者は5060万人、負傷者30万、損失家屋は230万戸。

 住む家は焼かれ、子を失くした人、親を亡くした人、孤児(浮浪児)になった子、一家全滅の家族、怪我をしている人、病気の人、飢える人々・・・。

これら戦争被害は、国の言論統制によって戦争の状況、国民の被害状況は報道されませんでした。

1945815日、戦争が終わって、被占領時代に入る9月、GHQもまたプレスコード(報道規制)を発令。放送,新聞,演劇,映画,手紙を検閲。占領軍批判の報道を厳しく規制し、東京空襲をはじめ諸都市の空爆、広島・長崎への原爆投下などその被害は報道されませんでした。

1952年の独立後も報道規制の慣習は続きました。残された空襲等一般戦争被害者には救済援護もなく、その悲劇と労苦の人生はいまも続いています。
 被害者は平均80歳を超えており、一日も早い援護立法が望まれます。


西沢俊次